翻訳夜話 / 村上春樹・柴田元幸(2000) 感想

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翻訳夜話 (文春新書)

「翻訳夜話」という本を読んだ。内容はそのタイトル通りのもので、「東京大学の柴田教室と翻訳学校の生徒、さらに6人の中堅翻訳家という、異なる聴衆(参加者)に向けて行った3回のフォーラムの記録」を収めた内容となっている。

フォーラム1とフォーラム2で村上春樹・柴田元幸の両氏が語る、「翻訳」という作業の面白さ、難しさ、思い描く「理想の翻訳像」、しいてはそこに見えてくる訳者自身の視点、こだわり、哲学…つまり自我。リラックスした講義室で語られるそうした話は、「夜話」というには底知れない、とても興味深いものだった。また、本書には両氏がそれぞれ同じ作品を翻訳するという試みも収録されており、それを基に実際の翻訳家たちが意見を交わし合うフォーラム3では、今まで深く考えたことのなかったような話題が沢山でてきて、こちらも単純に面白い。旅行前にブックオフ100円コーナーでひょいと手にした一冊だったが、良い買い物だった。

今回は、読んでて印象に残った、引っかかった部分を、いつもの感想記事のノリでサーっと記事にメモしておこうと思う。それでは。

1.完璧にはたどり着けない「翻訳」を支えるもの
2.翻訳の「賞味期限」
3.村上春樹がいうところの「グルーヴ」にツッコむ
4.自分を語るな、他(者)との距離を語れ
 
 
1.完璧にはたどり着けない「翻訳」を支えるもの
ここで話される翻訳スタンス…つまり物事に取り掛かる際の「姿勢」は、翻訳に限定される話ではないように感じる。読書論には密接するだろうし、批評論にも通じるものがあると思う(「論」というと、両氏に怒られそうだが)。これは勿論単純にイコールの関係ではないし、解説はともかくとして、対象を別言語に再構成する翻訳と、対象に別の視点から言葉を投げかける批評は根本から違う。が、そこには通底する部分があるように思うのだ。柴田氏の発言を引用する。

「そのテキスト自体と、その作家の人柄とどっちが大事かと言ったらもう、テキストに決まっている訳ですね。訳者の仕事というのは、そのテキストを一読者として読んだ時の感覚をいかに別の言語に再生するかだから、その紙の上の文字がどう聞こえるかが全てであって、極端なことを言うと、作家の背景なんて関係ないと思ってもいいと思うんです。(中略)知って損にならないことは多いんですけど、でも、とにかくその、作家が温かい人だから作品も温かく訳すというのは全然違うと思うんですね。」(P70)


つまり、何かを語る際の一つの前提として、「作品」という独立したフォーマットに対し「全幅の信頼」をよせること。村上、柴田の両氏は共に「テキストが全て」と頷きあい、作者への印象とテキストにギャップを感じて翻訳を変えるような姿勢は「読み込みが浅い」と切り捨てる。読んでて少し「そこまで言うのか」と感じるほど、両者の「作品」への信頼は強い。でもこれは本当に真っ当な話だ。作家の人間性を軸に作品を語るなら、それはどうしようとただの「作者論」の域は出ない。

だが、そこまで一作品に確固たる視点(=信頼)を持つというのも難しい。持てたとしてもそれを、翻訳なら別言語、批評や感想なら見方・感覚を文章に置き換えるのは容易じゃない。生徒からのそうした素朴な疑問に、村上氏が素晴らしい答えを返していた。

質問者「この本を自分が訳すのはいいことなんだ、という自信のようなものはどうやったら持てるんでしょうか」

村上「親密で個人的なトンネルみたいなものが、そのテキストとあなたの間にできれば、それは翻訳という作業が原理的に内包する避けがたい誤差を、うまい形で癒してくれるかもしれない。(中略)いちばん大事なのは、この文章の骨の髄みたいなのを自分がつかんでいるという確信ですよね。今のところはまだそれをうまく訳せないとしても、それは大した問題ではないんです。努力すればいつかできることなんだから。」(P41-42)


これは流石の言い回しというか、唸らされるものがあった。未読の方は、ぜひ本書から実際の文脈で読んでみてほしい。村上春樹は好きでないがオイ…彼の書く小説が苦手だ。ただ「アンダーグラウンド」の試みと意義はすごいと思った)、自分と愛する作品の距離に対しての、「親密で個人的なトンネル」、これは最高の表現だと思う。その複雑な認知の歪みを、確信をつかんでいるなら大した問題ではないとは、なんて素敵な見通しだろうか。いつか自分もその確信を言葉にしてみたい。
Radiohead / OK Computer
  
 
2.翻訳の「賞味期限」
賞味期限の話も面白かった。「原文よりも、なまじその訳文の方が、時代や文化のにおいを色濃く出してしまうことがある」という話だ。これは訳者の実力というより、翻訳の限界というか、しょうがない部分でもある。批評や感想の場合なら、むしろそうした"におい"も大事になってくるし、そうした時の変遷をある程度超えた領域として、解説があるのかな、と思う。作品の持つ意味あいは時代によって変わっていくし、世に出た瞬間でしか持ちえない視点もあり、時を超えて通じる部分もある。以下は村上氏の弁だ。

村上「一方に歴史的な名訳があり、時代に合った新しい訳が同時にあり、でいいんじゃないかと。それが一般的な読者に対する親切だと僕は思うんです。」(P93)


  
 
3.村上春樹がいうところの「グルーヴ」にツッコむ
話題がずれるが、村上春樹は文章についてしきりに音楽用語である「リズム」、更につっこんで「グルーヴ」という言葉を持ち寄るイメージが強い。この音楽的概念を文章に置き換えるなら、一章を一曲として、そこに置かれた1センテンスごとの繋がり、長さ、文体といったものが、おおよそ「(文章においての)グルーヴ」を生む要素になるだろうか。何が良いグルーヴかはともかくとして、こうした概念があるのは分かる。ここでふと思ったのが、文章にグルーヴを意識するなら、「テンポ」は?という言葉遊びみたいな疑問だ。

「テンポ」は誰が決めるか。映画なら簡単だ。制作者による「編集」と「収録時間」が完全に―…早送りや一時停止ができるぞという揚げ足は取れるものの―…鑑賞テンポを支配している。音楽でも、録音物は言わずもがな、ライブでは演奏者がテンポを決めるし、楽譜を見れば「Adagio(ゆるやかに)」だとか「BPM = 160」といった指定がある。しかし、読書においてだけそれがない。当たり前のことではあるが、一文一文の動きを読み進めるスピード…テンポは、完全にこちら(読者)に一任されている。考えてみればこれは特殊なことのように(かなり原始的な表現方法である文章に”特殊”というのも変だし、むしろ映画やらがおかしい気もするが)思う。

作者と読者には、テーマ以前に、読み進める上での合う合わないがある。が、それはお互いが想定しているテンポ感が違っていた、ということもあるのかもしれない。スローバラードを演ろうとしているのに、パンクの勢いで読むような…これは言葉遊びが過ぎるが、そんなすれ違いの可能性。読み進めるテンポというものも、読者として意識できる重要な要素か、と認識したのだった。あまり本書とは関係がないが。
  
 
4.自分を語るな、他(者)との距離を語れ
話がそれてしまったが、最後に、「自分のことについて書く」ことについてのアドバイスとして、村上氏が送った一言に感銘をうけたので引用したい。

村上「僕、カキフライ理論というのがあるんですよ。(中略)カキフライについて書くことは、自分について書くことと同じなのね。自分とカキフライの間の距離を書くことによって、自分を表現できると思う。語彙はそんなに必要じゃないんですよね。いちばん必要なのは、別の視点を持ってくること。それが文章を書くには大事なことだと思うんですよね。」(P236)


う~ん、これまた唸らされる。村上春樹氏の著作、もう一度手に取ってみようかと思わされる。

ほぼ会話劇ながら、二人の深い思考が透けてくるような、とても実りある一冊だった。これ、「ライ麦畑でつかまえて 」の翻訳について語った「2」もあるみたいだ。これもまた、見つけたら手にしてみようと思う。

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)
     

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Author:サム
旧一人音楽座談会。
「もう一回聴いてみよう」「こんなのもあるのか」が好きで、「これだけ聴けばいい」が嫌い。普段はTwitter↓にいます。

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